ご紹介する歌

斜めラインの飾り

天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
阿倍仲麻呂
"ああ、月が昇っている。あの月は故郷の月と同じ月なんだなあ"
天の原、イメージ画像
作者の阿倍仲麻呂は、19歳の頃、遣唐使として唐(現在の中国)へと留学に渡った留学生の一人です。
大変優秀な方で皇帝に気に入られたため、なかなか日本に帰ることを許してもらえませんでした。
そして30年経ったころ、ようやく帰国の許可がおりました。
その送迎会で詠んだのがこの歌です。
『ようやく帰れるのだなあ』 そんな気持ちを込めたのではないでしょうか。
しかし、日本に向かう船は暴風雨にあい難破。
船は現在のベトナムに漂着してしまい、帰国は叶いませんでした。 その後、ついに日本に帰ることなく、阿倍仲麻呂は遠い異国の地で生涯を終えました。
彼は月を見るたび、遠い故郷への思いをつのらせたのかもしれませんね。
斜めラインの飾り

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
右近
"私のことは忘れてもいいの……。でも「死んでも君のことを忘れたりしない!」なんて神に誓ったあなたの命、どうなるのかしらね"
忘らるる、イメージ画像
自分を忘れてしまった男性へ、皮肉をこめた一撃。
調べてみると、相手の男性の体調を心配して贈った歌だという解釈もあるそうですが、私は皮肉めいた解釈の方がどちらかというと好きなんです。
右近は恋多き女性でした。
男性に捨てられても皮肉を歌にして贈るだなんて、和歌文化のこの時代ならではですよね!
ただでは起きない強かさに、痺れるようなかっこよさを感じるのは私だけでしょうか。
ちなみにこの歌を贈った相手の男性は藤原敦忠と言われています。
彼も恋多き男子として有名でした。
ちなみに彼の歌も百人一首の43番に選ばれています。
その歌は右近とは別の女性に捧げた愛の歌でした。
神罰が下ったのかどうか、彼は38歳の若さで亡くなられたそうです……。
斜めラインの飾り

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院
"岩にぶつかり分かれる激流もいつかは合流するように、いつかまた会いたい"
瀬をはやみ、イメージ画像
この歌は恋人との再会を願った愛の歌なのですが、崇徳院の悲劇的人生と激流を重ねずにはいられません。
崇徳院は鳥羽天皇の実の子ではなく、祖父である白河法皇との間の不倫の子だったと伝えられています。
そのためか鳥羽天皇は崇徳院を「叔父子」と忌み嫌い、虐げ続けたそうです。
崇徳院を政治から遠のかせ、亡くなった後も「あいつには死に顔を見せるな」と遺言を残すほどの徹底ぶりでした。
その後崇徳院は保元の乱に敗れ、流刑の地で生涯を終えました。
保元の乱は鳥羽天皇の息子…後白河天皇との対立が一因としてありました。
後白河天皇は鳥羽天皇の息子。最後まで父の呪縛から逃れられなかったのかもしれません。
激流の人生の中でも「いつかまた会いたい」と、人との繋がりを願う気持ちに、胸を打たれます。
斜めラインの飾り

結び

3つの歌を紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
愛する人を思う気持ちや故郷への気持ち、
他にも今回はご紹介しませんでしたが、季節の美しさや友人との別れを偲んだ歌もあります。
もしも何か通じるものを感じていただけたなら、それはたった31文字で1000年前の人たちと心が繋がった瞬間なのかもしれません。
この素敵な文化が1000年後も2000年後にも残っていますようにと願いをこめて。
ご覧頂きありがとうございました!